千原こはぎ歌集『ちるとしふと』感想

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私たちが千原こはぎの本に,千原こはぎに惹かれるのはなぜだろう,と本を開く.

見事な巻頭歌だ.

玄関のドアをひらけば吹いてくる風のことです春というのは

歌集の表紙という扉を開けて初めに吹き込んでくる風が,この一首である.心のドアを開け放つ.爽やかに吹き込む新しい予感に胸をときめかせる一瞬を「春」というあたたかくやさしいことばで迎え入れる.ドアをひらいて出て行った先でスキップしたいような,逆にしゃんと背筋を伸ばして歩きたいような,なんとも言えない期待感で満ちている.

『ちるとしふと』はほとんど恋歌で構成された歌集であるから,それを踏まえると,出会いの季節,恋のはじまりにときめく主体が浮かび上がってくるようにも思える.

刊行から約1か月,5月13日日曜日に行われたトークショーについてレポートを書いているので,そちらも参照していただくとより面白く歌集を味わえると思う.少々(?)長いが,会場の雰囲気が伝わればうれしい.

千原こはぎ『ちるとしふと』刊行記念トークショー@ジュンク堂滋賀草津店 レポ 前編
千原こはぎ『ちるとしふと』刊行記念トークショー@ジュンク堂滋賀草津店 レポ 中編
千原こはぎ『ちるとしふと』刊行記念トークショー@ジュンク堂滋賀草津店 レポ 後編

連作「Ctrl+Zアンドウ

もうこれは私が引かなくてもいいぐらいたくさんの人が言及している.それもそのはず,これはこはぎさんにめずらしい職業詠の連作であること,そしてその職業がイラストレイター,デザイナーという特徴的な仕事だからだ.しかし,魅力はそこだけではない.何首か引用しながら話していきたいと思う.

これ以上ない完璧な輪郭を生み出すことからはじまる仕事

一本の髪のラインを引くために何度目だろうこのCtrl+Zアンドウは

誰ひとり気づきはしない0.2ptフォントサイズを下げる

前半部に展開する3首を引いた.私を含む読者の多くがイラストレイターやデザイナーの仕事の詳細は知らないし,なんとなくデザインをする人というのはキラキラしていて,自分の好きなことを楽しく仕事にしているイメージを持っているだろう.しかしこの細やかさ,几帳面さ,こだわりの強さである.

これという正解はなく,生み出すひと自身のちからにすべてが収束していくものに対して「これ以上ない完璧」さを追求していく.少し線が歪んだだけでその未完成さを察知してしまい,髪のラインを描いてはCtrl+Zを押し消去する主体.ことばづかいはこんなに淡々としているのに,イライラしている姿がありありと目に浮かぶ.「Ctrl+Zアンドウ」の1首だけで,イラストレイターの仕事を知らない私たちに主体のこだわりをここまで訴えかける力がある.

保存していないイラレと凍りつくわたし一瞬で失くす四時間

これはもうわかりみがマリアナ海溝(※「わかりみが深い」の最上位版)なので引いた.

「イラレ」は絵を描くソフト,Adobeの「illustlator」のことだ.「凍りつくわたし」と言っているが,これはPCソフトの「フリーズ」にもかかっている.私は絵は描かないが,これは私にとって「保存していないDAWと凍りつくわたし一瞬で失くす四時間」だ(DAWとはDTMをする人にとってのイラレだ).パソコンのソフトというものはなぜああ保存していないときに限って落ちるのだろう! 永遠の疑問である.DTMerの友達にこの短歌を見せたら転げまわって共感していた.つい最近Microsoftのwordが落ちたせいでレポートの進捗を失った友達もうんうんうなづいていた.「Ctrl+Sはまばたきと同じ」という先輩の名言が思い出される.Ctrl+S,しよう.

連作「宇宙語」

終わりゆく恋,恋人との別れを予感しながらも気持ちに見切りをつけられない主体を描いた連作.

かなしさの逃げ道としてびりびりとストッキングを裂きながら履く

連作最初の一首.ストッキングは肌のうえにたった1枚乗る布だ.その薄い布1枚があることで脚が美しく見えたり,健康的な色に見えたりする.その肌色をした健康的なストッキングを「びりびりと」「裂」いていくさまは,自傷行為をも連想させる.その穴から地肌で感じる涼しさ,つめたさが「かなしさの逃げ道」となるのだろうか.

ふるふると震えるジェンガ一瞬であなたを失くす準備をしてる

もう崩れ落ちるまで時間の問題となったふたりの関係は,急に生まれた違和ではないことを「失くす準備」が物語る.ふたりが結ばれたときには完璧な,ひとつもブロックの欠けていないジェンガだったにちがいない.それが,すれ違いや喧嘩,些細なことでひとつずつ安定感を失っていったのだとひとことで想像できる比喩だ.

くすぶった火種を抱え目を閉じる 夢であなたがただ水を撒く

連作最後の一首.失うことへの恐怖,失ったあとの喪失感への予感をひしひしと感じながらも,好きだという思い,出会ったころの思い出に浸ることをやめられない主体.「くすぶった火種」は恋の炎だろう.連作冒頭の「ストッキングを裂」くようなアグレッシブな主体はもうおらず,夢の中でも冷たい「あなた」に淡い期待を打ち砕かれるのを受容することしかできない.どこまでも切なく救われない恋が幕を閉じる.

連作「笑っておいた」

「どうしたらなれますか」には曖昧に運ですねって笑っておいた

1つ前の歌で「うちの子も絵が大好きで」という他人からのことばに「そうですか」とこれもまた曖昧に応えている.
イラストレイターである主体.「好きなことを仕事にしている」という夢のある外部からの視線と,実際の自分の仕事とのギャップを感じて,「曖昧に笑って」いる.簡単な2首だが,何度も繰り返されたであろう「どうしたらなれますか」の質問に辟易としている現在の主体だけではなく,「絵が好きだ」という気持ちだけでイラストレイターを目指していたかつての主体まで見えてくるようだ.

「掲載誌お送りします」許可もなく表情は描き換えられていて

Ctrl+Zアンドウ」で見せつけられたイラストレイターである主体の仕事ぶりとこだわり.その丁寧な,熱心な細やかさが,「許可もなく」描き換えられた自分の絵でぼろぼろに崩れる.「何度目だろう」と同じように冷静な口ぶりの「描き換えられていて」であるが,かえってその怒りとやるせなさがひしひしと伝わってくる.

かっこいいロゴだインスタ女子風にカフェのコップをさりげなく撮る

おとなでもさみしい夜はありますかそのせいですか膝を抱くのは

中間部は美容院,後半部の舞台はカフェへと移る.はっきり言って職業病だ.鋭い視線で身の回りのデザインをチェックして,「インスタ女子」を装ってロゴを記録する.デザインが好きで,イラストを描くのが好きで,だからこそのその行動だ.それに対して,実際には仕事は満足することばかりでなくて,「おとな」だから割り切らなければならないこともある.その隙間を埋めるように膝を抱いてこどものように座り込む主体が見える.

連作「ジャムの壜」

途切れない会話(おかしい)人見知りなのに(おかしい)こんなに笑う

括弧を利用したトリッキーな1首.主の文が表層心理,括弧内が深層心理という風に読んだ.この短歌の外側にさらにカギ括弧で綴られるふたりの「途切れない会話」と主体の笑い声があると考えると,この括弧で短歌の内側だけでなく外側にまで事象を生んでしまう不思議さがある.

初めて会ったふたりの相性の良さを「人見知りなのに」に凝縮して表現する.「好きだ」とか「いい人だな」とは言わずに,主体が相手に惹かれている様子がうまく描かれている.1首だと恋歌とも言いきれなくて,たとえば初めて出会った友達へ友愛の芽生えるシーンと読んでも瑞々しい気持ちになれる.

なお,この歌は千原こはぎさんが主宰したたべもの短歌アンソロジー『おいしい短歌』の連作「言わないけれど」に収録されている.『おいしい短歌』は300円.通販や文フリなどで購入可能だ.こはぎさんの美しい装丁にも注目.

太刀魚もバケットもお茶も何もかもおいしいだから少しさみしい

つづく1首.欠けたところのない人に,作品に,出会ってしまったとき,幸せな気持ちで満たされているとき,ふとさみしさが襲うのはなぜだろう.ふつうなら気のせいと見逃してしまうその一瞬を,「だから」こそさみしいのだと捕まえる.「パン」じゃなくて「バケット」が出てくるお店なんて超おしゃれだろう.おしゃれな雰囲気のいいカフェで,出てくる食事はおいしくて,初めてであった相手とうそみたいに笑い合っている主体の不安を見事に切り取った歌だ.

あとがき

あとがきは引用しない.本を読み終わったあとに読んでほしいからだ.もし「ちるとしふと」という言葉の意味がわからないひとがいたら,あとがきに載っているから,あわてず検索せず,「ちるとしふと」の意味を想像しながら一度読んでみてほしい.さらに言うと,あとがきを読んだらもう一度この歌集を最初から読んでみてほしい.恋歌ばかり詠むと批判されることもあるし,類歌ばかりになってしまうこともある.それでもこの歌集1冊350首は,どれも違う色を持っていて,連作それぞれにストーリーがあって,ずっと異なるときめきを感じ続けられる.

ここに挙げた以外の歌も千原こはぎ『ちるとしふと』刊行記念トークショー@ジュンク堂滋賀草津店 レポ 後編にて,嶋田さくらこさんと千原こはぎさんの対話に合わせて追加で評を載せたので,ぜひ合わせて詠んでいただくと,より『ちるとしふと』の世界が広がると思う.

私たちが千原こはぎのつくった本を読みたくなるのはなぜだろう.千原こはぎに惹かれるのはなぜだろう.

それは,その短歌の放つ輝きはもちろん,彼女が見せてくれる世界に期待しているからではないだろうか.

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